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東京高等裁判所 昭和26年(ネ)1257号 判決

控訴人 被告 渡辺儀市

訴訟代理人 沖田誠

被控訴人 原告 笠原製糸株式会社

訴訟代理人 今井忠男 釘沢一郎

主文

原判決を取消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴人は、主文同旨の判決を求め、被控訴人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方は、原判決の事実の部に記載せられたとおり、事実上の主張、証拠の提出、援用、認否をなし、かつ控訴人は、甲第一号証の一、二と甲第二号証の一、二とは同一書証であつて、甲第一号証の一、二は裏書抹消前に提出されたものであり、甲第二号証の一、二は裏書抹消後甲第二号証の三の附箋を附し、書証番号を変更して提出したものであると述べた。

理由

控訴人が被控訴人にあて、昭和二十五年一月三十一日、金額百万円、満期同年二月二十八日、振出地、支払地ともに甲府市、支払場所株式会社山梨中央銀行と定めた約束手形一通を振出したことは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第二号証の一、原審証人滝沢正の証言により真正に成立したと認める甲第二号証の二、三によれば、右手形の受取人として所持人となつた被控訴人は、昭和二十三年三月十三日右約束手形を株式会社八十二銀行上田支店に裏書譲渡し、同支店は同日株式会社山梨中央銀行に取立委任のため裏書譲渡し、同銀行は満期の翌々日である昭和二十五年三月三十一日に支払場所に呈示したが、支払を拒絶せられたこと、株式会社八十二銀行上田支店は右手形を被控訴人に返還した後、昭和二十五年八月三日(本訴提起後)裏書部分をすべて抹消したことを認めることができる。このように裏書がすべて抹消された以上裏書の連続については抹消された裏書は存在しないものとみなされるのであり、且つ本件手形(甲第二号証の一)が現に被控訴人の手中に存するのであるから被控訴人は現に本件手形の正当な所持人であるというべきである。

よつて進んで控訴人の主張する本件手形は繭及び生糸売買代金支払のために振出されたものであるが、右売買は経済統制法規に違反する無効の法律行為であるから控訴人に右売買代金支払の義務なく従つて本件手形上の債務を履行する義務がないとの抗弁について判断する。成立に争のない乙第一号証、原審における控訴人(被告)本人尋問の結果及びこれによつて真正に成立したと認める乙第三号証、原審証人古屋真保、同芦沢周作の各証言を綜合すれば、控訴人は被控訴人から、(一)昭和二十四年三月三十日、控訴人主張のとおり本繭及び生糸を代金合計三百十七万五千三百八十円にて買受け、(二)同年四月二十九日控訴人主張のとおり本繭、選除繭及び生糸を代金四百九十四万二千五百五十四円にて買受け、その都度現物の引渡を受けたこと、その後数回にわたつて、控訴人は被控訴人に右代金を分割弁済した残額が、昭和二十四年七月十九日現在において金三百万円あつたこと(右金額は乙第一号証によつて認める)、控訴人は、被控訴人に同年十月十四日右残額代金の内金として金十万円を支払い、その頃残額金二百九十万円の支払のために、約束手形三通を被控訴人にあてて振出したこと、その後控訴人は被控訴人に金九千七百円を支払い昭和二十五年一月三十一日には被控訴人との間に残債務を金二百八十九万円と協定し、右約束手形三通の書替手形として同日金額百万円の約束手形二通金額八十九万円の約束手形一通を振出したこと、本件手形は右書替手形三通のうちの一通であることを認めることができる。

しかして、本件繭及び生糸売買の時である昭和二十四年三月三十日及び同年四月二十九日には本繭については、臨時物資需給調整法(昭和二十一年法律第三十二号、同年十月一日公布)に基く上繭集荷割当規則(昭和二十四年農林省令第十号、同年二月十六日公布)、選除繭については、蚕糸業法施行令第五条の規定に基く玉繭、屑繭、副蚕糸及び真綿統制規則(昭和二十一年農林省令第七十号、同年十二月五日公布)、生糸については、前記臨時物資需給調整法に基く指定生産資材割当規則(昭和二十三年総理庁令、法務庁令、大蔵省令、文部省令、厚生省令、農林省令、逓信省令、労働省令第一号、同年六月十五日公布)が施行されており、繭及び生糸は、右法令に定められた場合の外は、何人もこれを譲渡し、何人もこれを譲受けてならなかつたことが明かである。しかるに、前記認定の繭及び生糸の被控訴人から控訴人に対する譲渡が右法令に定められた場合に該当しないことは当事者間に争のないところであり、右諸法令は、いわゆる配給統制に関するもので、戦後破綻に瀕していた我が国の経済産業を回復、振興し並びにこの種物資の需給調整、輸出振興することを目的とした公の秩序に関する強行法規であることは多言を要しないところであるから、本件繭及び生糸の売買契約は、これらの諸法令に違反して繭及び生糸を譲渡することを目的とした、即ち公の秩序に反する事項を目的とした無効の法律行為なることは明かであつて、当時控訴人は被控訴人に対し右売買代金支払の義務はなかつたのである。

ところが被控訴人は、右売買代金残額支払のため本件手形を振出した当時には既に右統制法令は廃止されていたのであるから、控訴人被控訴人間の本件手形の振出及び交付により、当事者双方は右売買の無効なことを知つて追認したものというべく、従つて本件手形は有効な売買の代金支払のために振出された有効のものであると主張しているので、進んで、この点について判断する。前掲上繭集荷割当規則及び玉繭、屑繭、副蚕糸及び真綿統制規則はともに昭和二十四年農林省令第四十三号で同年五月二十七日に廃止せられそれにより繭に関する配給統制が撤廃され、また昭和二十四年農林、通商産業省令第二号で、同年七月一日から生糸が指定生産資材から削除せられ、生糸に関する配給統制が撤廃されたのであるから、その後に前掲本件当事者間の各売買契約が締結されたとすれば、勿論それは有効であり、従つて新たに契約を締結しなくても、当事者が前になした売買の無効なことを知つて追認すれば民法第百十九条但書の規定により、そのときに新たな売買契約をなしたものとみなされてよさそうに一応考えられぬでもない。然しながら本件の場合は、売買が無効である当時すでにその目的物の引渡を了しその代金も過半は支払済であり、当事者は売買契約をなした目的を大半達しているのであつて、残代金の一部支払義務の存在を合法化するため、過去において公序良俗に反し無効であつた売買を、追認によつてそのときに新たに有効な売買が成立したと看做そうとするのは、国家が当時当該物資の需給を統制してその違反行為を無効とし、私法上の保護を与えなかつた趣旨からみて、今更私権保護に値しないもの、云いかえれば、かかる場合には追認によつても新たに有効な売買が成立したと看做すことはできないものと解するのが相当である。しかのみならず本件一切の証拠によつても控訴人並びに被控訴人が本件手形の振出にあたつて前記認定の売買契約が前記統制法規違反の故に無効であることを知りながら、これを追認したものと認めることができる資料はない。むしろ原審における控訴人(被告)本人尋問の結果によれば、控訴人は、前記認定の売買契約が無効であるとは考えずに、右売買契約上の債務を履行するために本件手形を振出したものと認められるのであるから被控訴人の再抗弁はこれを採用することができない。

然らば、本件手形は、前段説示のように公の秩序に反する事項を目的とする、無効な売買契約に基く代金の残額一部支払のために振出されたもので、結局本件手形の原因となる控訴人の債務は存在しないものであり控訴人は被控訴人に対しては本件手形上の債務を履行する責なきものというべきである。従つて、控訴人に対し本件手形金の支払を求める被控訴人の請求を認容した原審判決は失当であるから、これを取消し、被控訴人の請求を棄却すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条第九十六条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 斎藤直一 判事 山口嘉夫 判事 猪俣幸一)

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